死刑制度と存廃問題
堀 貴晴
死刑は言うまでもなく、犯罪者の生命を奪う刑罰である。そして、人間社会において最も長い歴史をもった刑罰である。しかし、今日この死刑制度の合理性、正当性が再検討されようとしている。では、死刑制度は古代から現代までどんな変遷を経てきたのだろう。そして死刑存続論、廃止論双方の主張にはどのようなものがあるのだろうか。
T 日本の死刑制度の歴史
日本の死刑は「魏志倭人伝」から、すでに3世紀には刑罰として存在したことがわかるが、法文化されたものとしては701年の大宝律令が最初である。しかし、その後仏教や儒教に篤かった聖武天皇は724年に死刑を中止した。そして代々の天皇もその施策を踏襲することで、3世紀半ものあいだ死刑は公的な日本の刑罰から姿を消したのであった。この事実は、わが国の刑法史においてはもちろん、世界においても特筆すべきことであろう。しかしこの死刑なき時代も保元の乱を転機とした武士社会の到来とともに終焉を迎えた。その後は武家による統一的法制としてさまざまな死刑が規定される。明治に入ると、津田真道らが死刑廃止論を唱えるものの、政府は死刑制度を存続させた。しかし明治15年に施行された旧刑法では死刑該当罪が整理・統合され、処刑方法も絞首刑のみと定められた。日本の現在の死刑制度はその時定められたものと、ほとんど変わっていない。現在でもほぼ毎年、死刑の執行が行われている。1999年にも9月10日に3人の死刑囚が東京、仙台、福岡の拘置所で処刑されている。
U 世界における死刑の歴史と現状
外国においても、古代より死刑制度は存在した。そして、死刑の経験を1度も持たなかった国は存在しない。中世ヨ−ロッパでも内乱期における殺戮と道徳荒廃の結果、さまざまな残虐な処刑法があみだされた。しかし、近世になると人道主義的精神から死刑適用範囲が制限されたり、処刑方法が整理されたりし、死刑制度そのものの存廃にまで論議が及んだ。1764年にはイタリアのチェザ−レ・ベッカリアが『犯罪と刑罰について』の中で死刑廃止を求め、ロシアの女帝エリザヴェ−タは治世中(1741年から1761年)死刑を廃止した。これを契機に死刑廃止国は漸次増えていった。
アムネスティ・インタ−ナショナルによると1999年 4月現在、世界各国の死刑存廃状況はすべての犯罪につき死刑廃止国が68ヵ国、通常犯罪につき死刑廃止国が14ヵ国、事実上の死刑廃止国(10年以上執行なし)が23ヵ国、死刑存置国が90ヵ国となっており、世界の半分以上の国が、法律上または事実上死刑を廃止している。また、先進国で死刑を存置しているのはアメリカの一部の州と日本だけとなっている。
V 死刑確定者の身分と死刑執行の手続き
現在、日本の死刑該当罪は殺人、強盗致死など17種である。しかし、死刑が絶対的法定刑である外患誘致(外国と通謀して、日本に対し武力を行使させること)以外は、懲役などとの選択となる。またこの死刑該当罪の中には、次期刑法改正時にはおそらく格下げされて死刑には該当しなくなるであろう罪種も含まれている。では、このような罪を犯してから死刑に至るまでは、どのような手続きを経るのであろう。まずは、検事が前述の死刑に該当する罪で起訴し、死刑を求刑する。そして裁判官が死刑が相応だと判断したときに死刑の判決が下る。死刑が確定すると、その死刑確定者に関するすべての記録が検察庁に送られる。それを受けて検事長は死刑執行に関する起案書を法務大臣に提出する。そこで法務大臣が死刑執行を命令する。刑事訴訟法第475条2項本文ではその命令は判決確定後6ヵ月以内に下されなければならないとされているが、実際にはこういったケ−スは少ない。これは刑事訴訟法に再審や恩赦申し立て中は執行期間としての6ヵ月に算入しないというただし書きがあり、ほとんどの死刑確定者がこれらの手続きを行い、延命策としているからである。ただ、いったん法務大臣の命令が下ると5日以内に絞首によって死刑が執行される(刑事訴訟法第476条)。また死刑執行の命令は法務大臣の交代期に多いことが指摘されている。これは法務大臣としても、できるだけ人間の生命が失われる死刑の執行命令は出したくなく、大臣を辞職するときに、残務整理としてまとめて命令を出すためと考えられる。
では、これらの手続きの間、死刑確定者はどのような立場にあるのか。拘置所では死刑確定者専用の舎房に入れられ、厳重監視の待遇となる。彼らは死に対する恐怖で起訴後から一般事犯の被告人以上に精神的に不安定になる。そこで拘置所側としては、指導課長などが面接して書道、俳句などをすすめ、「心の指導」を行っている。また生への執着を断ち切るために宗教教誨も行われている。ただ、彼らは懲役刑受刑者のように刑務所で労役を課せられることもないし、身の回りの品を厳しく制限されることもない。しかしこれは「わが身」と引換えに得た「厚遇」なのである。拘置所にいる死刑確定者は「受刑者」ではなく、死んで初めて「受刑者」になれるのだ。彼らには自由時間もあり、めいめいに楽しむことが出来る。だが「明日、死ぬかもしれない」という不安が消えることはない。
法務大臣が執行命令を出すと、死刑確定者は5日以内に死を迎える。最近では死刑確定者に対する執行の事前の告知や行事はほとんど行われない。それだけにいっそう死刑確定者が処刑場に呼び出される毎朝の「お迎え」の時間には死刑確定者の舎房の緊張は高まるのだ。何事もなく、この時刻が過ぎ去れば、またあと1日「寿命」が延びるのだ。しかしある日「お迎え」の靴音が自房のまえで止まったとき、死刑確定者はあと数刻の運命となる。そうなれば警備隊員がものものしく警護するなかを刑場に引き立てられていくことになる。ここでしめ縄が首のところで絞められる。そして当日指名された3人の刑務官が1つずつ踏み台操作のスイッチを押し(執行官の罪悪感を軽減するため)、そのうち1つが作動し踏板が落下する。このようにして死刑は執行される。その後、医師が死の確認をし立会人に死の報告をする。そして検事、拘置所所長が「執行始末書」に署名捺印する。ここで初めて死刑確定者は「既決者」になる。その「執行始末書」が法務大臣に届けられると、死刑が正式に完了したことになる。
W 死刑制度の合憲性
すべての国家的制度は、法の手続きを経たものでなければならないと同時に、憲法に違反したものであってはならないことはいうまでもないが、果たして日本の死刑制度は、いかなる法的裏付けを得ているのだろうか。1948年3月12日のいわゆる死刑合憲最高裁判決では、死刑が憲法36条で絶対に禁ずるとする残虐な刑罰にあたるかについて、「1人の生命は全地球よりも重い」としながらも、13条における公共の福祉による人権の制約の規定および31条の法定手続きの保障の規定が生命刑の存在を前提としていることを根拠に、死刑の合憲性を認めた。だが、死刑制度は本当に合憲なのだろうか。
- 第13条―個人の尊重と公共の福祉による制約
憲法13条においては、個人の尊重を規定すると同時に、公共の福祉という基本原則に反する場合には生命にたいする国民の権利といえども、立法上制限ないし剥奪されるということを当然予想しているものといわねばならない、というのが合憲論の主張である。つまり他人の生命を尊重せずして故意にこれを侵害したものは、自己の生命を失うべき刑罰に処せられる責任を負担すべきというのである。
しかし、違憲論では「個人の尊重」は憲法の核心であり、すべての憲法の規定はここから敷衍し解釈されるものという観点に立つ。そして、公共の福祉の目的による人権の制約は、「個人の尊重」と矛盾するものではなく、むしろその範囲内で許されるものと捉え、死刑による生命剥奪は、その限界を越えると考える。
- 第31条―法定手続の保障と死刑
死刑合憲論の根拠の1つになっているのが憲法第31条の規定である。第31条においては「何人も法律の定める手続きによらなければ、その生命を奪われない」とされているがこれは裏をかえせば、公共の福祉のためには国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める手続きを経れば、これを奪うことが可能である。よって憲法は刑罰としての死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきというのが合憲論の主張である。
これに対して、違憲論では31条によって憲法が積極的に死刑制度を肯定しているとは言えず、「個人尊重」「生命権尊重」を原則とした憲法の精神からすると、死刑はたとえ法律をもって規定されたとしても憲法に違反するとされる。
- 第36条―残虐な刑罰の禁止と死刑
憲法第36条では残虐な刑罰を禁止しているが、死刑は残虐な刑罰なのだろうか。合憲論では死刑は究極で冷厳な刑罰であるが、刑罰としての死刑そのものがただちに残虐な刑罰に該当するわけではない。残虐さは「処刑の仕方」にあり、火あぶり・はりつけなどでの処刑は「残虐」に相当するが、現行の絞首による処刑は残虐であるとは言えないとする。
一方、違憲論では死刑そのものが残虐であるとされる。死刑は生命を奪う刑罰であり、人間の生命維持本能に正面から対立するものである。そのため死刑が与える苦痛は極限のものであり、死刑囚のなかには精神に異常をきたすものもある。このような刑罰は、やはり残虐なものというしかないというのが違憲論の考えである。
X 死刑制度存廃の論点
死刑制度存廃の論点はさまざまなところに存在する。先に述べた死刑制度の合憲性も、その1つである。ここでは、それ以外の論点をいくつか紹介する。
- 死刑制度の犯罪抑止力
死刑制度を存置すべきとする理由のなかで、もっとも重要なのは死刑という刑罰が犯罪を犯そうとする者に犯罪を思いとどまらせる力、つまり犯罪抑止力をもっている、とするものである。もし、死刑制度が廃止されることで凶悪犯罪が増加し、それにより一般市民の生命が脅かされるということが明らかであれば、死刑制度の正当化も説得力を持つことになる。逆に、死刑制度が犯罪抑止のために力をもたないということになれば、存置派はその理由を他に求めなくてはならない。
刑法学者植松正は「思慮分別のある犯罪人は犯罪による利得と発覚した場合の損得を比較均量してその手段を決しているのである。また、死刑の抑止力が作用した場合には、その者は犯罪人となることがなく、したがって犯罪学者の面接研究の対象にもならない。」と述べている。これを根拠に死刑存置派は死刑に抑止力があるとし、犯罪者に対する面接研究の結果、犯罪時に死刑宣告を受けることを予想して犯罪を実行した者がいなかったとしても、それは当然であるとしている。
それに対して精神科医小木貞孝は、獄中の死刑確定者・無期受刑者を面接調査した結果として「自分が死刑を宣告されるだろうと考えて犯行を犯したものは1人もいなかった」といった報告をしている。死刑廃止派はこういった調査結果や、死刑を廃止した国においても刑事政策上否定的な結果を生んだという事例は報告されていないという事実などを根拠に死刑制度には犯罪抑止効果は存在しないと主張している。
- 誤判の可能性と死刑制度
死刑制度と誤判の可能性という問題は、非常に大きな論点である。誤判があった場合、自由刑の場合は損害賠償金などによって本人に対する代替的回復措置が不可能ではない。しかし、死刑では被害者である本人にはどんな代替措置もできない。遺族にいくら賠償金が払われても、本人は帰ってこないのである。死刑が執行された後に誤判が判明しても、まったく救済の可能性がないということについて、これを死刑制度の致命的な欠陥と捉えれば、他の論点を論ずることなく死刑は廃止すべきという結論に到達することになる。このため誤判の可能性が 1パ−セントでもある以上、死刑は廃止すべきであるという論者も少なくない。なお、日本においては、1983年以降、再審により4人の死刑確定者が無罪判決を受けている。
この誤判の可能性について、死刑存置派は「日本での死刑執行は非常に少なくなっており、また死刑執行後誤判であったという事実は今まで明らかになっておらず、したがって誤判は1つも存在しなかったと言える。そして、たとえ誤判があっても、それは現行の再審制度で充分救われる。」と主張する。これに対し、死刑廃止派は「誤判が今までなかったからといってこれからもない、とは言い切れない。また、死刑が執行されたあとでは、余程のことがないかぎり、その事件を再調査する者はいないので、本当に誤判でなかったかどうかはわからない。」と反論する。
また、誤判の可能性を認めながらも、それを必要悪と考えている死刑存置論者もいる。彼らは万一、誤判にあたるものがあるとしても、社会秩序の維持の必要を考えれば、やむを得ない程度の少数であると考えている。そして、誤判はすべての刑罰の場合にあり得ることであり、誤判の危険を重視しすぎると、すべての刑罰を否定しなくてはならないことになるとしている。これについて死刑廃止論者は死刑犯罪における誤判は、処刑された者に対する直接の名誉回復が不可能である点で他の刑罰と決定的に異なり、また近代立憲主義の核心である個人の尊厳の理念に照らすと、少数であるからといって、やむを得ないとはいいきれないと主張している。
- 死刑に代わる刑罰
死刑制度存廃議論にあたり、主に存置派から提起される問題に、死刑に代わる刑罰の不存在が挙げられる。この問題は、現行刑法では死刑の1つ下の刑は「無期懲役」であり、その場合、10年服役すると仮出獄が可能であるということにある。すなわち、凶悪犯罪者でありながら、わずか10年で社会復帰というのは刑として軽すぎ社会や被害者の遺族の感情にそぐわず、再犯の恐れという点も無視できない。よって死刑は必要だというのが存置派の意見である。
死刑廃止論者のなかには死刑に代わる刑罰として恩赦および仮出獄のない絶対的終身刑を挙げる人もいる。確かに絶対的終身刑は再犯を完全に防げるという点では死刑と同じ効果があるだろう。しかし、この意見は死刑廃止論者からも絶対的終身刑は人格の無限の発展の可能性を無視する点で死刑と同じぐらい、もしくはそれ以上に非人間的な刑罰であって、憲法の人間の尊厳の理念にそぐわないとする強い反論がある。また、現実的問題として絶対的終身刑が定められると、刑務所の収容人員が増え、維持費がかさむということが挙げられる。
- 被害者の慰謝と死刑制度
死刑を存置すべきとする主張のなかで、もっとも根本的な理由となるのは被害者(遺族を含む)の感情の慰謝の手段としてということが言えるだろう。凶悪事件の被害者の心情を慮れば、それが加害者に対する極刑の要求となってあらわれるのは、自明なことであろう。つまり被害者の遺族の感情を考慮に入れると、死刑もいたしかたないというのが存置派の意見である。
このような意見に対する廃止派からの反論の大半は国家の刑罰権の行使にあたり、具体的な被害者の応報感情を反映するべきではない、といったものである。また、より積極的に被害者感情を死刑制度存置の理由とすべきではないとする主張としては、「被害者感情の慰謝は刑罰の本質ではなく、死刑によっても遺族が慰謝されるとは言えない。葛藤の末に人間として犯人の罪を許すことによってしか真の心の平安は得られない。そのための遺族に対するカウンセリングの充実といった実質的対応をすることの方が重要でないか。」といったものが考えられる。
- 世論と死刑制度
政府が死刑制度存続の理由としてよく挙げるのは、それを求める世論である。確かに、世論調査では、一貫して死刑制度を容認する回答が過半数を占めている。しかし、世論の支持は本当に死刑制度存続の理由となるのだろうか。死刑廃止派は「日本が民主国家である以上、通常の政策決定においては民意の尊重が重要であるが、死刑制度のような少数者の人権が問題となるときには、民主主義原理は妥当しない」として、これを否定する。政府は少なくとも世論を死刑制度存続の隠れ蓑にするのではなく、なぜ世論が死刑を容認しているかを考え、死刑制度存続の理由をはっきりさせる必要があるだろう。
- まとめ
ここまでさまざまな論点を紹介してきたが、この他にも論点はある。例えば、存置派の主張として人を殺したものはみずからもまた殺されなければならないとする応報刑論が存在する。しかし、それでは 2人以上の人間を殺したものは罪を償えないことになってしまう。このように死刑存廃についての議論は水掛け論になってしまい、決着がつかないことが多い。だからといって死刑の問題を避けるわけにはいかない。死刑の問題は人間の生命に直接に関わりのある重要な問題であり、法律や刑事政策のみならず、人の生命の価値観に連なる極めて理論的かつ実践的な問題なのである。われわれ一人一人が死刑の問題について考えていく必要があるだろう。
私個人の見解としては、死刑制度に反対である。その理由の大半は今まで述べてきた廃止派の主張の中に含まれるが、他にも理由はある。例えば死刑は教化、矯正を目的とする近現代の刑事政策と相容れないという点である。これは教育刑論と呼ばれるものであるが犯罪者から贖罪や改悛の可能性を奪う死刑は、刑罰としてふさわしくないと私は考える。犯罪者を死刑にしたところで、それは国家による安易な解決法であって、むしろ生きて償わせることの方が重要ではないだろうか。また、死刑はその受刑者だけではなく、死刑にかかわる多くの人々の人間性を無視しているという点も、私が死刑に反対する理由の1つである。特に自らが一生懸命、更生への手助けをし、やっとその成果が出て罪を悔やむようになった犯罪者が死刑に処されるときの刑務官の苦悩は、はかり知れないものである。また実際に受刑者の首に縄をかけ、死刑を執行する刑務官が受ける心の傷もかなり大きいものである。そして死刑の判決を下す裁判官や執行命令を出す法務大臣などにも、いたたまれない気持ちは残るであろう。このように死刑は複数の人間の人権を無視したものだといわざるを得ない。こういった理由で私は死刑に反対する。「死刑を廃止するのは時期尚早だ」という意見もあるが死刑廃止は今や世界的な流れとなっている。日本でもいますぐに死刑を廃止することはできないかもしれないが、死刑を科す基準をだんだんと厳しくしていき、段階的に死刑を廃止する方向へもっていくことは可能ではないだろうか。
参考文献・サイト
・村野薫 『日本の死刑』 (柘植書房 1990年)
・「死刑制度の廃止へ向けて」
URL http://www.asahi-net.or.jp/ ef4j-tkji/dp/dp.html
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